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2021.04.30

広松由希子のこの一冊 ―絵本・2020年代― 連載第7回 まきあつこ/文 降矢なな/絵『ヴォドニークの水の館』



第7回 降矢奈々さんと河童のことなど
まきあつこ/文 降矢なな/絵『ヴォドニークの水の館』
(BL出版 2021年3月刊)



 降矢奈々さんと初めてお会いしたのは、私が大学を出たばかりの新米編集者の頃。降矢さんは、その前年に『めっきらもっきら どおんどん』(長谷川摂子/作 福音館書店)でデビューしたばかりの絵本作家でした……そんな昔のことなども、先週の教文館ナルニア国のオンライントークでお話させていただきました。35年間の公私のお付き合いのなかで、私が降矢奈々さんについて講演したのは、初めてのことでした。

 その人気も実力も、誰もが認めるところでありながら、読者のふところに入り込み、論じる構えを作らせないのが、降矢奈々さんの絵本の特色だと思います。

 トークに先立ち、「降矢なな絵本原画展」を駆け足で見てきました。『めっきらもっきら どおんどん』から、最新作の『ヴォドニークの水の館』まで。絵本と読者に向かう一貫した誠実な姿勢と特質、そして積み上げた技術の変化を感じ、特に『ヴォドニーク』の原画の前では、息をのみました。美しい水の中の世界。そして、次の舞台を予感させる絵。
 

 

 表1と表4が一枚絵となった表紙絵に、まず目を奪われます。自然に絵本の中へ、水の館へと誘い込む、少女の目と手、半開きの赤いカーテン。水の流れと、魚の体のしなり具合。ああ、本当に巧い、絵本を身体的に心得た、数少ない画家のひとりです。親しみとエンタメ精神に包まれたその絵は、「巧さ」を直接に感じさせることは少ないのですけれど。

 ヴォドニークとは、チェコやスロバキアで語り継がれてきた水の魔物。絵本はもちろん、人形劇、詩、映画、交響曲にもなって、親しまれています。一般に男性で、緑色で長髪、燕尾服を着ていて、水辺にいて人を引きずり込む……日本の河童のような存在ですね。頭のお皿ではなく燕尾服の裾が乾くとダメなんだとか。時により怖かったり、ユーモラスだったりするのも河童といっしょ。ラダが描いたヴォドニークなどを見ると、ひょうきんな隣のおじさんといった風情です。ロシアやウクライナではヴォジャノーイと呼ばれるようですが、ビリービンが描いたヴォジャノーイは、カエルとナマズとおじさんを合体させたような姿をしていたりします。

 「チェコにも河童がいる」という話は、ずいぶん昔、たぶん瀬川康男さんに聞いたのだと思います。瀬川さんは、チェコスロバキアで出版された日本昔話集『modré vánoce』(Albatros 1975)に、河童のカットをたくさん描かれていました。生涯河童好きだった瀬川さんですが、降矢さんについて、あるとき「俺は、あいつ、かってんのよ」と言われたことを今も思い出します。

 さて、『ヴォドニークの水の館』のヴォドニークは、怖いけれど怖いだけではなく、主人公の娘の救いともなる、つかみどころのない魔物です。まきあつこさんのあとがきによると、再話のもとになったのは、19世紀中頃にドイツ語で出版され、2009年に初めてチェコ語訳が出たという『ボヘミア地方の伝説』(ヨゼフ・ヴィルギル・グローマン著)。「約150年というタイムトンネルを経て出版されたため、当時の姿をとどめていた」ということです。枝葉のついたまま、謎を含んだままの伝説が、絵本化された印象があります。

 あまりの貧しさ、ひもじさに世をはかなんだ娘を、ヴォドニークが水の館に連れ帰り、ごちそうを与え、召し抱えます。娘は言われた通り、せっせと掃除をするのですが、掃き集めたゴミは金の粒に変わり、小遣いとして与えられるのですね。このへん、ヴォドニーク、かなりゆるい。

 そして、絶対のぞくなと言われていた、ストーブの上に並んだ美しい壺――


 開けるために並んでいるようなものでしょう。ストーブにはちゃんと、手頃な階段もついているし。
娘は死んだ弟の魂を解放すると同時に、ヴォドニークが溺れさせた人たちの魂を閉じ込めていたことを知ります。この俯瞰。画面右上に気体となり、光となって飛んでいく魂。構図の展開、左右のページ間のドラマなど、降矢さんの真骨頂ですね。

 ページをめくると、大きく視線を遮るヴォドニークの緑と赤の背中。怒るヴォドニークも泣いて謝る娘も顔は描かず、身体の表情で見せる。赤羽末吉さんの『スーホの白い馬』の転換部のとのさまの背中を彷彿とさせるような、絵本のドラマが見られます。角度をつけず、白黒チェックの床のタイルを正方形に描いたところ、文には書かれていないふたの破片を象徴的に見せるところなど、にくいです。

 ヴォドニークは、魂がひとつ減ったことに気づき、娘を叱りつけますが、娘が震えて謝ると、「つぎは命がないぞ」と、脅しながらもここでも情けをかけるのです。そうして結果的に、娘の頭のなかが、つぼのこと、魂のことでいっぱいになり、決意を固めるまで、時間の猶予を与えることになるんですね。

 一拍おいて心を決める、片ページの場面も、象徴的で美しい。黒を背景に、ページの中央に正面向きで描かれる少女は、白地に刺繍の入った民族衣装。箒を持った立ち姿には、チェコやスロバキアで見かけるお土産品のトウモロコシ人形を思い出しました。

 娘は、ヴォドニークによって変わったのです。水辺で泣いて、身を投げようとしていた娘が、冷たく恐ろしげな魔物のもとで、ごはんと仕事とお小遣いを得て、考える時間と気持ちを取り戻し、しかも――
 

 

 自分が館を逃げ出す前に、囚われた魂をも、すべて自由にさせるわけですね。

 2013年に『三本の金の髪の毛―中・東欧のむかしばなし』(松岡享子/訳 のら書店)の挿絵を描いた降矢さんは、壺から魂を解放させるシーンのあるヴォドニークの絵本が描きたいと、思い続けていたそうです。
この魂の天に昇っていく場面は、降矢さんの目には、描くずっと前から見えていたのじゃないでしょうか。表現にほとんど迷いが感じられません。

 一方、対照的なのは、次の場面です。教文館の展示会場で、私が原画の前で立ち尽くした絵が、これです。
 

 

 すべての魂を逃した後で、水の館を出た娘は、「いそがなくちゃ!」と言いながら、どこへ向かえばよいのかわからない。囲われた館の中ではなく、ヴォドニークにとっては庭のような、広い水の中で、無我夢中で逃げるしかない。この深い、底知れない水の表現と、必死の形相をした娘に胸が詰まりました。

 デビュー以来、幅広いキャラクターたちの豊かな表情を描き続けてきた降矢さんが描く、見たことのない顔。あえて真横から。この半抽象的な1画面に、降矢さんの新しい顔を見た気がしてゾクッとしました。

 娘がやみくもに逃げている間に、ヴォドニークは目を覚まし、遠くから追いかけてくるのですが、間一髪。娘は出口の光を見つけます。

 ……でも、本当にそうだったのかしら。だってヴォドニークは、館で眠っていたのに、地上の岸辺からの娘の泣き声を聞きつけるほどに、耳ざといやつなんですから。娘が自立して、全部の魂を逃して、出口付近へ逃げおおせるまで、じりじりしながら彼女を泳がせていたのでは。金の粒の小遣いまで渡して……などと疑いたくなります。日本でも、河童の絵本は切ない後味のものが多いけれど、娘を逃したヴォドニークの性格や心中に想いを巡らせてしまう。荒削りなぶん、何度も読み返したくなる、味わい深い昔話です。

 シリアスな展開のなかにも、広間の柱の彫刻や、ストーブのレリーフ、壺の柄、召使いの正体など、絵の背景には降矢さんお得意の遊びも、ちらほら見られますよ。 日本の作家と画家たちによる、個性が発揮された「世界のむかしばなし絵本シリーズ」10冊目。一冊ずつ、本当にいろんな方角に旅させてくれますね。

・・・・・

 光の中へ逃げ出していく水の中の素足を見ていたら、『おっきょちゃんとかっぱ』(長谷川摂子/文 福音館書店)を思い出し、ひさしぶりに開いてみました。降矢さんが30歳でスロバキア(当時はまだぎりぎりチェコスロバキア)に渡り、ブラチスラバ美術大学でデュシャン・カーライの元で学んでいた頃の作品。水を得た魚のように、生き生きとした伸びやかな筆運びで、解放感を味わえる絵本です。
いたいた、光に向かって泳ぐおっきょちゃん。そして、桃太郎みたいに、スイカから生まれ直すまぶしい裸体。ヴォドニークとあわせて、もうひとつの河童と水の世界を楽しんで。こっちは、水もぬるくて、日本の懐かしい夏を感じます。

 デビュー作から大人気「おれたち、ともだち!」「やまんばのむすめ まゆ」のシリーズ、最新作までの絵本原画や、タブロー、スケッチ、幼児期から可愛がっていたキツネのぬいぐるみまで……奥深い「降矢なな絵本原画展」は、5月5日(水)まで、銀座教文館9Fウェンライトホールにて開催中です。   
 

 
 

ふりやなな/1961年東京都生まれ。スロバキア共和国在住。ブラチスラバ美術大学版画科でドゥシャン・カーライ教授に師事し、石版画を学ぶ。絵本に『めっきらもっきら どおんどん』「やまんばのむすめ まゆのおはなし」シリーズ(共に福音館書店)、「おれたち、ともだち!」シリーズ(偕成社)他、挿絵に『三本の金の髪の毛―中・東欧のむかしばなし』(のら書店)などがある。

 


 



広松由希子 ひろまつゆきこ/絵本の文、評論、展示、講座や絵本コンペ審査員などで活躍中。2017年ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)国際審査員長。著作に絵本『おかえりたまご』(アリス館)、「いまむかしえほん」シリーズ(全11冊 岩崎書店)、訳書に『ローラとつくる あなたのせかい』(BL出版)、『ヒキガエルがいく』(岩波書店)、『うるさく、しずかに、ひそひそと』(河出書房新社)など。2020年8月3日より、絵本の読めるおそうざい屋「83gocco(ハチサンゴッコ)」を東京・市ヶ谷にオープン。www.83gocco.tokyo




東京都新宿区市ヶ谷に「えほんとごはん」のお店ができました。団地の一室をリノベーションしたささやかなスペースですが、和洋中さまざま、日替わりのおそうざいと、セレクトされた国内外の絵本をお楽しみいただけます。世界各国の絵本関連展示のほか、子ども向けの文庫、大人向けの絵本イベントなどもぼちぼち開催していきます。 最寄り駅は大江戸線牛込柳町。神楽坂、市ヶ谷、曙橋も徒歩圏内。お散歩がてらお気軽にお立ち寄りください。

えほんとごはん 83gocco
東京都新宿区市谷加賀町2-6-1 市ヶ谷加賀町アパートA-102  営業時間/11時〜19時 定休日/日・月 


   
「83gocco(ハチサンゴッコ)」店内 撮影/志田三穂子

 
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